inokuchimark.jpg (3881 バイト)  業界の話

株式会社井口鋳造所の所属しています鋳造業界の話をします。

このぺ−ジの最終更新日は10/09/15です。

 

H17.7.1「社団法人日本鋳造協会」 Japan Foundry Society,Inc. 設立。

<日本鋳物工業会+日本強靭鋳鉄協会+日本鋳造技術協会>

初代会長加藤喜久雄氏(アイシン高丘

副会長→筆頭副会長児玉洋介氏(児玉鋳物)、以下五十音順

    木村博彦氏(竃リ村鋳造所)、酒井英行氏(潟Lャスト)、

    杉山清氏(潟Xギヤマ)、武山喜久雄氏(武山鋳造)、

    田中保昭氏(大和重工)、中谷兼武氏(コマツキャステックス)、

    仁科捷哉氏(叶^岡製作所)、以上8名。

理事50名、監事3名、5部会→総務・経営・技術・国際・中小企業、

会員950社(法人正会員297社・団体正会員31組合598社・賛助会員55社)。

第2代目会長中谷兼武(コマツキャステックス

 

社団法人日本鋳造技術協会ー>S31/11日本シェルモールド協会発足、

S46/12鋳造技術普及協会へ名称変更、H4/8日本鋳造技術協会へ名称変更、

H8.11.27設立40周年記念於東京會舘。

Japanese Association of Casting Technology<略称・JACT(ジャクト)>

 

社団法人日本強靭鋳鉄協会ー>S31/5強靭鋳鉄懇談会発足、

S32/5強靭鋳鉄工業会と改称、S34/3(社)日本強靭鋳鉄協会の認可。

H15/4現在会員数138社(正会員98社・賛助会員40社)

 

社団法人日本鋳物工業会

Japan Cast Iron Foundry Association

ー>S13.4.14創立総会を開催、S13.5.26商工大臣より工業組合法

に基づき許可され誕生した日本鋳物工業組合連合会(略称・鋳工連)が、

我が国で初めての鋳鉄鋳物の経営者の中央団体であり、

現在の(社)日本鋳物工業会の前身である。

S27.5.18社団法人日本鋳物工業会となり、現在に至る。

野口悠紀雄「1940年体制」東洋経済新報社H7.5.8発行を参照の事>

滝沢七郎S13/4@学識経験者→小林英三S23/4A埼玉川口

→大徳正義S47/11B東京(S56.11.18来熊)

→濱鐵夫S61/5C長野(H1.6.20来熊)

→岡本太右衛門H8/5D岐阜(H11.6.4来熊)

児玉洋介E川口<敬称略>

  

全九州銑鉄鋳物工業組合(略称・全九銑)ー>昭和43年発足。

福博部会、北九州部会、筑豊部会、筑後・熊本部会、

佐賀部会、長崎部会、大分部会。

瀬戸製作所S43@ー>戸畑鉄工S53Aー>八幡ハイキャストH6B

ー>日鉄工業H14C

 全九銑鋳新会ー>全九銑二世会(H3.3.7発足「ふくおか2世会」が前身、

一木ファンドリー@ー>エノモトAー>峯陽Bー>井口鋳造所C

ー>小林鋳造所Dー>戸畑鉄工E)は平成12年3月31日をもって解散し、

”鋳物業界の維新”の趣旨を込め、平成12年4月1日を期して「鋳新会」を結成、

初代会長楠原製作所、2代目会長島原鉄工所、3代目会長植田鋳造、

4代目会長副島産業、5代目会長沖縄鋳鉄工業。

 

M17同業組合準則ー>M30重要輸出品同業組合法

ー>M33重要物産同業組合法ー>M33産業組合法

ー>T14輸出組合法(ー>S12貿易組合法)

ー>T14重要輸出品工業組合法ー>S6工業組合法ー>S7商業組合法

ー>S18商工組合法ー>S21.11.9商工協同組合法

ー>S24.6.1中小企業等協同組合法

ー>S32.11.25中小企業団体の組織に関する法律

ー>S38中小企業近代化促進法

<参照・金澤良雄著「経済法の史的考察」有斐閣S60.3.30発行>

 

旧通産省機械情報産業局鋳鍛造品課から、

平成9年7月1日機械情報産業局総務課素形材産業室への名称変更。

平成13年1月6日、経済産業省製造産業局素形材産業室への変更。

初代素形材産業室長小谷泰久氏、2代目中野節氏、3代目富田健介氏、

4代目増田仁氏、5代目前田泰宏氏、渡辺政嘉6代目室長。

昭和22年10月商工省機械局鋳鍛造品課初代課長山内一二三氏@

ー>新井真一A(昭和24年通商産業省通商機械局鋳鍛造品課)

ー>重見通雄Bー>吉開勝義Cー>吉岡忠Dー>美農利雄E

ー>越田日高四郎Fー>戸谷深造Gー>中嶋淳夫Hー>内田元亨I

ー>藤本和男Jー>中屋敷正人Kー>田中達雄Lー>五十嵐義男M

ー>板倉省吾Nー>村田輝史Oー>島弘志Pー>霜弘太郎Q

ー>吹譯正憲Rー>橋本久義Sー>相馬哲夫S@ー>荻布真十郎SA

ー>吉開正憲SBー>竹田原昇司SCー>杉上孝二SD<敬称略>

 

日本鋳造機械工業会ー>会長は新東工業

H12.6.13創立40周年記念式典開催於パレスホテル箱根。

 

CUPOLAを考える会ー>会長は故石野享近畿大学教授。

S60.7.16設立総会於大阪ガーデンパレスホテル。

 

社団法人日本鋳造工学会(旧社団法人日本鋳物協会)ー>昭和7年5月29日、

関東の東京地方鋳物懇話会と関西の関西鋳物懇話会が、

合同記念通常総会並びに講演大会を催したのを契機に誕生。

平成7年6月、日本鋳物協会から日本鋳造工学会への名称変更。

 

石川登喜治@--飯高一郎A--網谷俊平B--三島徳七C--浜住松二郎D

--平岡正哉E--田中勘七F--久恒中陽G--谷口熙H--真殿統I

--鹿島次郎J--斉藤弥平K--椙山正孝L--堤頴雄M--加山延太郎N

--金田義夫O--大平五郎P--瀧勇Q--千々岩健児R--西山圭三S

--石野亨S@--三野重和SA--中村幸吉SB--市村元SC--神尾彰彦SD

--加藤喜久雄SE--中江秀雄SF--幡掛大輔SG<敬称略>

 

2003.9.20Henton Morrogh氏逝去、享年85才。

H15/11「鋳造工学」誌大平五郎氏記――>数千年に及ぶ鋳鉄の歴史の中で、

画期的な発明と謂えば可鍛鋳鉄の発明(1722年Reaumurによる白心可鍛鋳鉄

と1826年Seth Boydenによる黒心可鍛鋳鉄)と1947年Henton Morroghに

よる球状黒鉛鋳鉄の二つであろう。Morrogh氏は初めBCIRA(英国鋳鉄研究所、

British Cast Iron Research Association, Birmingham)の顕微鏡試料の研磨工と

して働いており、その間も新しい研磨剤としてダイヤモンド粉の開発その他の特許を

得ていた。そしてNi−C合金やCeの入った鋳鉄では球状黒鉛が時々現われるのを

1934年頃から気がついていたが、偶発性も考えられるとして頭の片隅には留めていた

ようである。1947年JICI(Journal of Iron&Steel Institute)に初めて

大論文として発表した。

 

H12/3/末現在日本鋳造工学会ー>正会員3056、学生会員127、

外国会員86、維持会員(事業所)445、名誉会員25。

<支部別・正会員数/維持会員事業所数>

北海道・60/8、東北・259/39、関東・843/132、北陸・83/15、

東海・928/123、関西・480/74、中国四国・236/33、九州・167/21。

 

全国講演大会が春秋の年2回開催されている。

春の大会担当は関東支部が2年に1回、関西、東海の各支部が4年に1回。

秋の大会担当は北海道、東北、北陸、中国四国、九州の各支部が5年に1回。

 

WFC(WorldFoundryCongress)国際鋳物会議ー>国際鋳物技術協会

CIATF(Comite International des Associations Techniques de Fonderie)が主催、

最近は2年に1回。我が国では社団法人日本鋳造工学会が担当している。

1922英国Birminghamでの誕生、第1回は仏国Paris、第2回は米国Detroit。

我が国での開催は1968第35回京都と1990第57回大阪の過去2回。

第62回は1996米国Philadelphia、第63回は1998ハンガリーブダペスト、

第64回は2000仏国Paris、第65回は2002韓国、第66回は2004トルコ・イスタンブール、

第67回は2006英国・ハローゲートでの開催。

 

GIFA (Giesserei Fach Messe)、鋳物展示会が独国Dusseldorfで開催。

1956、1962、1968、1974、1979、1984、1989、1994、1999、2003。

 

AFS (American Foundrymen's Society) Casting Congress

第1回は1903年Milwaukeeでの開催。

1996年は設立(1896年)百周年を記念してPhiladelphiaでの開催。

AFS主催の鋳物展示会が北米で3年に1回あり。

前回のCastExpo'02は2002.5.4-7Kansas City, Missouriにて。

今回のCastExpo'05は2005.4.16-19St.Louis, Missouriにて。

 

財団法人素形材センターー>昭和59年旧財団法人綜合鋳物センターを

改組して発足。

 

鋳鍛造品課関連団体連絡会(略称・鋳団連) 1997.10現在   35団体

鋳型ロール会  S23.3.4

社団法人軽金属協会  S22.12.10

財団法人次世代金属・複合材料研究開発協会  S56.8.13

水道バルブ工業会  S35.6.6

全国作業工具工業組合  S41.2.15

全国銑鉄鋳物工業組合連合会  S45.5.26

全国ダイカスト工業協同組合連合会  S44.6.14

全日本鍛造工業会  S22.10.20

全日本ヤスリ工業組合連合会  S35.11.26

財団法人素形材センター  S59.7.1

財団法人鍛造技術研究所  S45.3.6

鉄管継手協会  S9.5.1

社団法人日本鋳物工業会  S27.3.25

日本可鍛鋳鉄工業会  S27.10.29

社団法人日本金型工業会  S32.11.25

日本木型工業会  S39.8.22

社団法人日本強靭鋳鉄協会  S34.3.18

日本金属熱処理工業会  S34.1.17

社団法人日本金属プレス工業協会  S49.5.1

日本高圧継手協会  S48.3.27

社団法人日本工業炉協会  S41.1.28

社団法人日本産業機械工業会  S23.6.17

日本自動機器工業会  S30.4.1

社団法人日本ダイカスト協会  S30.11.26

日本ダイカストマシン工業会  S51.7.8

社団法人日本鍛圧機械工業会  S23.12.1

日本鋳造機械工業会  S35.7.12

社団法人日本鋳造技術協会  S31.12.26

日本鋳鍛鋼会  S47.7.1

社団法人日本バルブ工業会  S29.3.21

社団法人日本非鉄金属鋳物協会  S21.8.1

日本粉末冶金工業会  S31.4.30

日本ホース金具工業会  S39.1.17

日本マグネシウム協会  H3.6.1

光造形産業協会  H6.1.26

以上、敬称略・五十音順.

 

鋳物はこうしてつくられる。

T.鋳造方案ー>生産個数や要求される材質、形状、寸法精度等に応じて

どのように製造するかを決める。

U.模型製作ー>製品図面に忠実に仕上げ代、寸法許容差、溶湯(溶かした金属)の

凝固収縮等を考慮に入れて主型、中子(空洞部をつくるための型)の模型をつくる。

V.鋳物砂調整ー>型をつくる鋳物専用の砂に粘結剤や添加剤を配合する。

W.溶解ー>必要な化学成分をもつように配合した材料を溶解炉で溶かして

高温の溶湯をつくる。

X.主型造型ー>鉄製の枠の中に模型を置き砂をつめて上下型をつくる。

Y.中子造型ー>主型と同様に中子をつくる。

Z.型合わせー>下型に中子をセットし上型をかぶせて鋳型を組み立てる。

[.注湯ー>型に溶湯を注入する。注湯後は適切な時間で冷却。

\.型ばらしー>上下の型を分離し製品を取り出す。

].鋳仕上げー>製品の表面についている砂を落とし不要な突起等を削りとる。

 

鋳型の話ーー>JACTの各種造型法解説を参照の事。

硬くて丈夫で熱にも磨耗にも強く更に精密な機械加工もできる金属を

思いのままの形に成型する工作法が鋳造である。

鋳造では溶けた金属を固める事無くそのまま鋳型に流し込んで成型する

ので工程が短く、大きさの点では数gから300tまで、生産数では

1個から数十万個まで自在である。模型は木型と金型に分かれ、

鋳型は主型(おもがた)と中子(なかご)に分かれ、

又鋳型は次ぎの10種類に大別できる。

@生型

A乾燥型

B自硬性鋳型ー>無機系粘結剤・有機系粘結剤

C熱硬化性鋳型ー>シェルモールド法・ホットボックス法

Dガス硬化性鋳型ー>CO2鋳型・VRH法

E消失模型鋳型ー>フルモールド法

F減圧造型鋳型ー>Vプロセス

G精密鋳造法ー>インベストメント法

・セラミックモールド・プラスターモールド

H金型鋳造法ー>重力鋳造法・低圧鋳造法・ダイキャスト法

I遠心鋳造法

 

失敗作一般がオシャカになった話ーー>昔、阿弥陀仏を作ろうとしたが、光背が

あまりに薄肉の為に溶融金属が廻り切らず、光背のない釈迦仏のようになってしまう事

が多かったので鋳物不良を「オシャカ」といい、更には失敗作一般を指して「オシャカに

なった」というようになった。<新山英輔「金属の凝固を知る」H10.3.20丸善p90>

 

鋳造機械の話ーー>久保田長太郎さんが鋳物の徒弟として豊田佐吉さんの会社

豊田自動織機の前身会社)で働いていた頃、豊田さんの考えとしてこれからの

鋳物の製造は機械力を取り入れるべきであるとの主張に共鳴して、大正末期に米国から

輸入したモールディングマシンを手本として昭和の初期に初めて国産の単体造型機を

製造したのが、鋳物製造用機械の日本における生産の嚆矢である。

<大徳正義日本鋳物工業会元会長の話>

 

大野晋「古典文法質問箱」H10.12.25角川文庫p116

(「日本語の文法<古典編>」(角川書店 1988年)として刊行)

漢語の「鋳(ちゅう)」を如何して「鋳(い)る」と読んだのでしょうか。

金属を鋳るのは縄文時代には金属器はなかったので弥生式文化以後で

なければならないが、水を壷から注ぐという動作は縄文時代からあった。

それを「沃(い)る」といったが、新しく「鋳」という言葉が入ってきて、金属を溶かして

液体のようにして鋳型に注ぎ込む動作が「沃る」と同じようであったので、

「鋳」を「いる」と読むようになった。

 

御鋳物師会の話ーー>第76代目近衛天皇が病に臥した仁平年間(1151―1154年)

に魔除けの吊り灯篭108ヶを献上したら病が治った事から、代々朝廷に吊り灯篭を

献上し公用の鋳造が許された108人の鋳物師集団で、現在も鋳物業を営んでいる者で

構成されており全国に20数社の会社があり、会合としては平成元年の発足である。

 

網野善彦「日本の歴史を読み直す」筑摩書房 1991.1.30

p231→職能民の職能伝説には貴種流離伝説の形を持つものを含めて

その起源を天皇に求めるものが多い。鋳物師はその職能を近衛天皇に求めている。

 

網野善彦「続・日本の歴史を読み直す」筑摩書房 1996.1.20

p92→鋳物師は典鋳司(いもののつかさ)内匠寮(たくみのりょう)に所属していたが、

11世紀になると、蔵人所(くろうどどころ)という官庁に所属し、殿上の燈炉(とうろ)を

貢納しながら、鋳物師としての独自な組織を持ち、燈炉供御人(くごにん)と謂われて

諸国の自由通行の特権を与えられ、鋳造の仕事に携わると共に、鋳物等の鉄器を

持って全国を交易の為に遍歴している。 

 

網野善彦「日本中世の非農業民と天皇」岩波書店

1984.2.281刷、2002.4.515刷発行、

序章T津田左右吉と石母田正、U戦後の中世天皇制論、V非農業民について、

第1部非農業民と天皇、

第1章天皇の支配権と供御人・作手、

第2章中世文書に現われる「古代」の天皇―供御人関係文書を中心に―、

第3章中世前期の「散所」と給免田―召次・雑色・駕輿丁を中心に―、

第2部海民と鵜飼―非農業民の存在形態(上)―、

第1章海民の諸身分とその様相、

第2章若狭の海民、

第3章近江の海民、

第4章宇治川の網代、

第5章常陸・下総の海民、第6章鵜飼と桂女、

第3部鋳物師―非農業民の存在形態(下)―、

第1章中世初期の存在形態、

第2章中世中期の存在形態、

第3章偽文書の成立と効用、

終章T「職人」について、U「社会構成史的次元」と「民族史的次元」について、 

まえがき→本書は中世の非農業民及び天皇を巡ってこれまで発表してきた

論文・研究ノート等の旧稿の一部を中心にして新たに編成し直したものである。

第一部を非農業民と天皇、第二部・第三部を非農業民の存在形態

として纏めてみたが、寄せ集めの弱点はやはり覆うべくもない。

徒これまで旧稿に対して加えられてきた意図不分明という批判を

受け止めて多少なりとも現在の私の考えを鮮明にすべく努めてみたので、

本書について改めて大方の厳しい批判を得て更に研究し考え続けたいと思う。 

あとがき→1953年夏から翌年にかけて私は日本常民文化研究所の蒐集した

霞ヶ浦・北浦関係の近世文書の整理と筆写本の校正を行なっていた。

その過程で既に一応の知識を持っていた霞ヶ浦十八津の歴史について

もう一度史料を読み直しその滅亡に至る経緯を確かめてみる機会を

得たのであるが、それを纏めた幼稚な小ノートだけを「歴史学研究」が

掲載してくれたのはその2、3年後、1956年の事であった。

研究所で働いた6年間全く怠慢だった私が纏め得たのは

この小ノート一つに留まるが、今考えてみればあのようなものを

当時の「歴研」がよく採用してくれたと思う。

しかしこのノートは私にとって初めて発表した自分自身の仕事の結果であった。

そしてその時微かに感じとることの出来た「過去の大きな力」を

その後の遅々たる歩みの中で追い続けてきた末に

どうやら本書が形をなしてきたと言ってよい。私事に渡る事になるが

この小ノートだけはこのような事情から加筆するに忍びず

又既に別の形に纏め直したものもあるにかかわらず

重複を敢てして本書には当時のままの本文を収めてある。

研究所を離れた後、中世の漁村文書を細々と読み続け

思いついた事を纏めてみたものの、漁業のみに目を向けていた私は

ともすれば道を見失いがちであった。そこに偶々名古屋大学に勤務することになり

真継文書」に巡り合うことが出来たのである。その整理と解読を通して知り得た

鋳物師の世界は狭い私の視野を多少とも拡げ、

漁村―海民をもう一度考え直す道を開いてくれた。

日本常民文化研究所が戦前から研究を蓄積してきた鵜飼について

改めて考えてみる気持になったのもその過程でのことである。

そうして海民・鵜飼・鋳物師等の問題を追っているうちに

戦後から今迄私が拘り続けていた天皇の問題と

それらの人々が容易く切り離し難い関係を持っていることに

気付いた時の驚きは大きかった。その驚きの中で

非農業民と天皇の関係について1971年から翌年にかけて

私なりのぼんやりした見通しを発表したのである。

当時私はそれなりの決心をもって天皇の問題に取り組んだつもりであった。

しかしその後勉強を進めていくにつれこの決意がまだまだ不徹底なものであったこと、

問題は非常に大きく根深いことに気付かざるをえなかった。

拙論に対して寄せられた数々の厳しい批判もそうした私の心の隙間の存在を

反省しこれを埋めるべく努力する機縁を与えてくれた。

十分な見通しも用意もなしに私の用いた非農業民」という言葉

に対する様々な御批判も同様である。本書ではこれらの御批判によって

知り得た私の誤りは出来る限り修正したつもりである。

云うまでもなく天皇制は今も我々の前に未解決な大問題として存在しつづけている。

真面目に物事を考えようとする限りこれを避けて通ることは決して出来ないと私は考える。

元より私自身最後までこの問題を正面にすえて取り組み対決することを

今後の課題とする覚悟であるが、この拙い書によって

もしも天皇に拘りつづける人が若干なりとも増えれば幸いと思っている。

又今も決して活発とは言い難い「非農業民」の歴史の研究に

本書が多少なりとも刺激になればと願ってやまない。