株式会社井口鋳造所の位置しています熊本地域社会の話をします。
このぺ−ジの最終更新日は10/09/15です。
熊本市長選H18/11/12熊本市民67万人
幸山政史41(現職市長2期目) 16万4387票
佐藤達三61 8万3894票
本田良一66 1万6708票
中嶋啓子51 1万4630票
投票率53.75%
当日有権者数 52万2534人(男24万846人、女28万1688人)
H14.11.10熊本市長選、現職と新人の一騎打ち、投票率49.06%
(有権者数H10.11.10現在51万1094人、男23万6260人、女27万4834人)
幸山政史(37才)<前自民党熊本県議>13万2652票
三角保之(62才)<3期目、元熊本県議S15.10.23生>11万6228票
歴代熊本市長名(番号は何人目かを表示しているのみ)
杉村大八@ー>松崎為己Aー>辛島格Bー>山田珠一Cー>依田昌兮D
ー>佐柳藤太Eー>高橋守雄Fー>辛島知巳G(→山田珠一)
ー>山隈康Hー>平野竜起Iー>石坂繁Jー>福田虎亀K
ー>佐藤真佐男Lー>林田正治Mー>坂口主税N(→石坂繁)
ー>星子敏雄Oー>田尻靖幹Pー>三角保之Qー>幸山政史R<敬称略>
熊本県上益城郡嘉島町長選(H19.1.30告示)、現職荒木泰臣氏(60才) 六選。
熊本県知事選(→投票日及び当選者)
@S22.4.5桜井三郎、AS26.4.30桜井三郎、BS30.2.11桜井三郎、
CS34.1.22寺本広作、DS38.1.29寺本広作、ES42.1.15寺本広作、
FS46.1.31沢田一精、GS50.2.2沢田一精、HS54.2.4沢田一精、
IS58.2.6細川護熙、JS62.2.1細川護熙、KH3.1.27福島譲二、
LH7.2.5福島譲二、MH11.1.31福島譲二、NH12.4.16潮谷義子、
OH16.4.4潮谷義子、<敬称略>
地域の政治家(敬称略及順不同)
<代議士>
熊本1区松野頼久46B民主党
熊本2区野田毅64K自民党山崎派
熊本3区松岡利勝61E自民党伊吹派、安倍晋三内閣農林水産大臣
熊本4区園田博之63F自民党谷垣派
熊本5区金子恭久43B自民党山崎派
九州比例代表区熊本県選出
木原稔@自民党無派閥(小泉チュルドレン)
林田彪C自民党津島派
西川京子A自民党伊吹派→福岡10区当選B
江田康幸B公明党
<参院議員>
三浦一水A自民党伊吹派
参院比例区
魚住汎英A自民党伊吹派
松村祥文@自民党津島派
H17.9.11衆院選熊本第一小選挙区
松野頼久(民主党現職)11万2500票
木原稔(自民党新人)11万0072票
H16.7.11参院選熊本選挙区(減員区2から1へ)
木村仁(自民党現職)41万1542票(内熊本市内11万6731票)
本田良一(民主党現職)37万2469票(内熊本市内13万7662票)
H12.2.25福島譲二現職熊本県知事72死。
県知事3期9年、代議士6期14年(元労相)、大蔵省官房審議官、
主計局総務課長、佐藤栄作総理秘書官、主計官、三重県総務部長、
主計局主査、熊本国税局総務課長、(秋田県)横手税務署長を歴任。
H12.4.27県民葬於グランメッセ熊本、
従三位勲一等瑞宝章故福島譲二県知事県民葬。
H11.11.14守住有信前参院議員75死。
参院議員3期13年、郵政省事務次官、初代電気通信政策局長を歴任。
H11.12.13偲ぶ会於メルパルク熊本、
従三位勲二等瑞宝章故守住有信先生を偲ぶ会。
熊本の気候は過ごし易い春と秋が極端に短く暑い夏と寒い冬が長いー>西が
内海の有明海、東が九州山地、北東部が阿蘇山で、形状は盆地に似ている。
<阿蘇山という山はありません。阿蘇山は総称です。
中岳(1506m、今なお盛んに噴煙をあげる巨大な噴火口があります。
噴火口は7つに分かれて最大の第一火口は直径600m、深さ130mで
火口から出る溶岩の温度は1000〜1200℃にもなります)、
高岳(1592m、阿蘇五岳の最高峰頂上には旧火口があります。
通常阿蘇山の標高はこの山の高さを言います。
山体は荒々しく谷も急峻でロッククライミング場として有名です。
1592(ヒゴのクニ))、根子岳(1408m、五岳の東端に孤立した山です。
険しい稜線を観せ、潅木の密生した岩は鋸の刃のように聳えています)、
杵島岳(1321m、鳥帽子岳の北側を破って噴出した寄生火山です。
山頂に直径100mの旧火山があります)、鳥帽子岳(1337m、
尖った峰があるだけで火山はありませんが、北斜面に接して
草千里ヶ浜があります。これが根子岳中腹の火山の跡と言われています)
を阿蘇五岳といい、これらの山の総称を「阿蘇山」と呼びますが、
本来は更に五岳の北側の阿蘇谷と南側の南郷谷、
これを取り囲む外輪山までを含めて「阿蘇山」といいます。>
春は花、夏ホトトギス、秋は月、冬雪さえて涼しかりけり<道元禅師の歌>
日本国における一極集中現象は熊本の方が東京よりも進んでいる。
熊本県186万人・熊本市内外通勤圏100万人(54%)・熊本市66万人(35%)
日本国1億2500万人・首都圏4000万人(32%)・東京都1200万人(10%)
全国47都道府県中、人口は岡山県に次ぎ熊本県は22番目であるが、
都道府県庁所在地の「最高路線価」は東京、大阪、横浜、名古屋、
福岡、神戸、広島、京都に次いで熊本市は9番目である。
熊本市の現在の姉妹都市は米国サンアントニオ市105万人と
中国桂林市55万人と独国ハイデルベルグ市13万人の3都市であるが、
熊本市の人口66万人から言えば西国セビーリャ市68万人や
独国ディッセルドルフ市57万人や独国ハノーファー市55万人や
米国セントルイス市40万人に近い。
H13.5.5サントリー九州熊本「ビール工場」、
熊本県上益城郡嘉島町に年内にも着工へ。進出協定から13年振り、
同社は1963年ビール市場に参入、武蔵野、京都、利根川の3工場
に次ぐ4番目のビール工場。
H14.1.24新熊本サントリー会発足、
H15.7.11サントリー九州熊本工場見学会、
H15.8.13弊社サントリー自動販売機設置、
H16.8.9九州熊本工場操業1周年記念会。
H17.10.10ダイヤモンドシティ・クレア
熊本県上益城郡嘉島町上島にオープン。
駐車場4500台、146社160店舗、年間売上高250億円、
売場面積5.2万平米、ショッピングモール280m、
核店舗はスーパー「ジャスコ」と家具店「アンビオンス」、
半径10kmの23万世帯が商圏、
競合はクレアから直線で8kmの熊本市中心商店街と、
クレアから北西4kmの広島イズミの「ゆめタウンはません」。
熊本・江津湖の水を利用した出水・砂取の酒精会社の話。
設立の謂われは細川護久の第二公子長岡護全が日露役遼陽の会戦で、
名誉の戦死を表彰して銅像を水前寺境内に建立した。
除幕式に参列した熊本出身の東京の財界有力者橋本信次郎の主唱で、
熊本には地場産業がない、煙の昇っているのは風呂屋ぐらいのもの、
とハッパをかけられ、熊本財界の長老高橋長秋の賛同を得て、細川家を代表して
本田武典、代議士原田十衛、大地主松田伝太郎等も加わり、長秋翁の推薦で
中島為之を社長として資本金50万円で肥後酒精株式会社が誕生した。
原料のカライモを運ぶために会社から三郎を経て小山戸島まで専用の道路を
松田は独力で開設した。カライモ収穫時には毎日イモ馬車が500台を超えた。
機械をドイツから輸入し、製品の焼酎は天草、島原、鹿児島の出水方面まで
加勢川を下し川尻から舟で運んだ。アルコールの製造は江津の湧水を
活用したものである。大阪の赤玉ポートワインの寿屋鳥井信次郎の求めに応じ、
鳥井からワインのもとを送って貰ってワインを製造し、かめ詰めとして大阪に送った。
鳥井は大阪住吉のびん詰め工場で肥後酒精から送ってきたワインをびん詰めにし、
全国に宣伝して赤玉ポートワインとして売り広めていった。そして今日、
赤玉ポートワインのほかにサントリーウィスキーに発展したもので
最近ではビールにまで進出、洋酒業界の王者となった。
寿屋が今日あるのは肥後酒精と赤玉ポートワインとの提携が
素因をなすものと見る。肥後酒精はその後幾変転、
今日協和発酵の工場としてイーストや薬品を製造している。
桑野豊助「くまもと商家物語」S52.12.15城野印刷所p194を参照。
尚、現在は同地に熊本市立総合体育館と熊本県立図書館が立地している。
桑野豊助「くまもと商家物語」S52.12.15城野印刷所
佐々成政の失政のあと、肥後の北半分(25万石)は
秀吉から加藤清正に与えられ、南半分は小西行長に与えられた。
天正16年(1588年)閏5月のことである。
<←豊臣秀吉の考えたこの区切りが、現代に生きている。
参院選地方区は戦後ずーと、熊本全県一区であるが、
衆院選は中選挙区時代、熊本市を南に北半分が熊本1区、
熊本市を含まない南半分が熊本2区の、南北2区であった。
平成8年(1996年)10月20日以降の現行の小選挙区時代でも
熊本旧1区は熊本1、2、3区、熊本旧2区は熊本4、5区である。>
6月に清正は隈本城即ち古城(現在の県立第一高校所在地)に入城した。
清正は文禄・慶長の役にも参加し大功を立てた。
慶長3年(1598年)秀吉死去、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで
行長は西軍に清正は東軍に属したが、小西は滅び領地は没収され
肥後全土が清正の所領となり54万石の領主となった。
かくて古城は手狭となり茶臼山に地を卜して城を築いた。白川を外濠とし、
坪井川を茶臼山の裾を流れるように方向を変えて内濠の役割を持たせた。
地名も「隈本」を「熊本」に変え、城も「熊本城」又の名を「銀杏城」と
称することとなった。築城に要した日数は慶長6年から13年まで7ヶ年、
その間肥後全土の治山治水、新地の干拓、国づくり、町づくりで着々と
工を進めた。まず町づくりとして城下を侍町と町人町に分けた。
第一に新町に大阪や名古屋から清正を慕ってついて来た商人や職人と
地元の商人・職人を定住させた。更に国府のあった古町村二本木に
集落していた商家を移して古町を形成させた。武家屋敷では
上級武士は熊本城内から下馬橋を渡った今の花畑町・山崎町一帯、
中級武士は坪井・京町、下級武士は高田原と分散した。
又商人町は職人町・魚町・桶屋町・米屋町・塩屋町・紺屋町・
呉服町・大工町・鍛冶屋町・檜物屋町(葬式取扱業)等
職業によって分け町名をつけた。又朝鮮役にちなみ蔚山町・唐人町・高麗門町
とつけた。侍町では鷹匠町・駕町・歩町・五十人組町・相撲町・仲間町等
そのものずばりの町名をつけた。
清正の治世は今日の熊本の基礎を築いたものでその遺徳は永世に残る。
慶長16年(1611年)清正が死んで忠広が世継ぎしたが、
幕府の忌諱に触れて、寛永9年(1632年)領地を没収され、
出羽庄内に流された。その子光正は飛騨高山に配流、
8月豊前小倉の細川忠利が肥後守に任ぜられ12月熊本に入った。
こうして熊本は細川忠利以来詔邦に至るまで12代239年間の
細川藩時代が続くのである。忠利は名君であり行政手腕も抜群であった。
行政を司ったのは藩庁で、城下町は町局が支配した。行政区画として
15の懸に分ち、懸の長として別当役2人乃至6人、その下に82丁、丁頭と
五人組を置いた。15の懸は新1丁目・新2丁目・新3丁目・蔚山町・職人町・細工町・
西古町・中古町・東古町・紺屋町・京町・今京町・出京町・本坪井町・新坪井町。
商人町は大体町名によってわかり、現在まで伝えられている。細川藩時代は
大藩として城下町も栄えたが、明治4年(1871年)7月の廃藩置県により、
明治政府のもと、熊本も新しい県、新しい町となった。
熊本日日新聞社発行「肥後学講座」(第1回〜12回)20060331
編集「熊本城400年と熊本ルネッサンス」県民運動本部
http://www.kumamoto-runesansu.jp/index.html
p6→細川家は、古くは清和源氏の流れを汲む家柄で、
足利氏に連なる一族で、足利義清と云う人が三河の国(今の
愛知県額田郡細川村)へ行き、細川姓を名乗った。
後に肥後を治める細川家の遠祖は室町幕府の管領を務めていた
細川頼之の弟の細川頼有で、その頼有から数えて8代目の細川
元常へ養子にいった細川藤孝(幽斎)が肥後細川家の初代である。
H17.10.3細川家17代目当主細川護貞氏93死、
財団法人永青文庫(細川家の伝来品を所蔵する)理事長、
日本いけばな芸術協会長、日本工芸協会長、日本ゴルフ協会長、
1940年〜41年10月第2次近衛文麿内閣首相秘書官、
1943年11月から故高松宮宣仁親王御用掛。
長男は18代目細川護熙元首相(50人目79代目)S13.1.14生である。
細川藤孝@ーー忠興Aーー忠利Bーー光尚Cーー綱利D
ーー宣紀Eーー宗孝F
(宣紀E)ー 重賢Gーー治年Hーー斎茲Iーー斎樹J
ーー斎護Kーー韶邦L
(斎護K)ー護久Mーー護成N
(護久M)ー護立Oーー護貞Pーー護熙Q